戦前の日本人は朝鮮半島で何をしでかしてしまったんでしょうか?
私たちは日本の子供たちに「歴史の事実」をしっかり伝える義務があります!
なでしこりんです。日頃、韓国人は「日本は朝鮮半島でひどいことをした」と言い、パク・クネにいたっては「千年経っても日本を恨み続ける」とさえ発言しています。ではここで皆様に質問です。「日本は戦前、朝鮮半島で何をしたのでしょうか?」 これって、韓国の教科書では、「日韓併合時代」を「日帝強占下」と呼んで、「朝鮮半島は日本の植民地であり、日本は朝鮮から略奪しまくった」と教え込んでいます。実は日本の教科書でも、自虐史観に立つ教師は韓国と似たようなことを教えているわけですが・・・今日はなでしこりんと一緒にお勉強をしませんか?
1910年の日韓併合記念門には「奉迎の文字」が! 1930年の京城(ソウル)は植民地?
まず「日韓併合」は1910年に始まります。そして、1945年のアメリカ軍による南朝鮮占領までの35年間が「日韓併合」の期間です。期間的には35年です。それを「1000年恨む」のですから「29倍返し」ですね。いやはや、半沢直樹もビックリです!ww
説明文によると洋服の男性(日本人)と韓服の男性(朝鮮人は)朝鮮総督府の同僚
まあ、「1000年も恨む」んですから、日本は35年の間に「1000万人ぐらい朝鮮人を虐殺」したのでしょうか? ここからは「事実」のみを書いていきますね。実は35年間の「日韓併合時=日帝強占下」で起こった大きな混乱は、1919年3月1日に起こった「三・一事件」だけです。大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀にあわせて、朝鮮人過激派(独立派)がデモを呼びかけ、その混乱の中で、駐在所や郵便局が襲撃され、、官憲の死者8名と負傷者158名が出ます。当時、朝鮮の行政は朝鮮総督府が担っていました。上の写真と下の写真を見ていただければわかりますが、朝鮮を統治していたのは日本人と朝鮮人なんですね。日本が一方的に支配していたのではありません。ですから騒乱にも日本人と朝鮮人によって組織された憲兵警察が騒動の鎮圧に当たりました。その時点で暴徒側にも死者が出ます。その数は、当時の朝鮮総督府の記録「朝鮮 騒擾事件道別統計表」(3月1日 - 4月11日)によると「死者357名」。当時上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の「韓国独立運動之血史」によれば、「死者7509名」です。その後、この騒乱での刑事処分が行われましたが、死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者は誰もいません。
大正三年(1914年)すでに朝鮮人将校が多数存在していることがわかります
私は「日韓併合」時代に何もなかったとは言いませんが、「郵便局を襲撃した朝鮮人がいて、治安の維持に当たっていたのも大多数が朝鮮人憲兵警察であった」ことを忘れてもらっては困るんですね。韓国人は「全ての責任を日本に押し付ける」ことを戦略的な手段として用いてますが、「事実」を抜きにしたら「歴史は矛盾」せざるを得ません。実際、韓国の国会議員の父や祖父に憲兵や憲兵補助員だったのがゴロゴロいるわけです。パク・クネだって実父は日本の「陸軍士官学校」を出ているのですから、いくらなんでも一方的な「植民地支配」などという捏造歴史は通用しません。私たちの父や母、祖父や祖母の時代、日本人は朝鮮人の国づくりのために誠心誠意協力していたんです。そのことだけは断じて歴史を曲げさせるわけには行かないのです。
最後に「日韓併合」時代の朝鮮半島の人口推移を見ておきましょう。歴史は「事実」を通してのみ語られるべきです。そう思いませんか? By なでしこりん
これが戦前の日本人が朝鮮半島でやったこと!
人口増加の背景にあるのは「食糧増産」と「衛生状況の改善」です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
西暦 | 朝鮮半島居住の朝鮮人 | 1910年との対比 | 備考 |
1753 | 730万人 | 56% | |
1850 | 750万人 | 57 | |
1864 | 802万人 | 61 | |
1876 | 804万人 | 61 | |
1885 | 897万人 | 68 | |
1891 | 788万人 | 60 | |
1904 | 710万人 | 54 | 日露戦争(1904年~1905年)*ここまでは李氏朝鮮による調査 |
1907 | 1167万人 | 89 | 2年前(1905年)に日本の保護国になる。(第二次日韓協約)*これより日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査 |
1910 | 1313万人 | 100 | 日韓併合始まる |
1911 | 1383万人 | 105 | |
1912 | 1413万人 | 108 | |
1913 | 1517万人 | 116 | |
1914 | 1562万人 | 119 | |
1915 | 1596万人 | 122 | |
1916 | 1631万人 | 124 | |
1917 | 1662万人 | 127 | |
1918 | 1670万人 | 127 | |
1919 | 1678万人 | 128 | 三・一事件 |
1920 | 1692万人 | 129 | |
1921 | 1706万人 | 130 | |
1922 | 1721万人 | 131 | |
1923 | 1745万人 | 133 | |
1924 | 1762万人 | 134 | |
1925 | 1854万人 | 141 | |
1926 | 1862万人 | 142 | |
1927 | 1863万人 | 142 | |
1928 | 1867万人 | 142 | |
1929 | 1878万人 | 143 | |
1930 | 1969万人 | 150 | |
1931 | 1971万人 | 150 | |
1932 | 2004万人 | 153 | |
1933 | 2021万人 | 154 | |
1934 | 2051万人 | 156 | |
1935 | 2125万人 | 162 | |
1936 | 2137万人 | 163 | |
1937 | 2168万人 | 165 | |
1938 | 2195万人 | 167 | |
1939 | 2210万人 | 168 | |
1940 | 2295万人 | 175 | |
1941 | 2391万人 | 182 | |
1942 | 2553万人 | 194% |