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戦争の「功と罪」 台湾視点とパラオ視点 ペリリュー島民全員を避難させた日本軍は何者だったのか? 

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ねえねえ、戦前の日本人って本当に極悪人たちばかりだったんですか?

 2015年、もうそろそろ一方的な「自虐史観教育」から脱却しませんか?


 なでしこりんです。今年は西暦2015年、思えば今から101年前に「第一次世界大戦」が始まり、私たちの国・日本は「日英同盟」を結んでいた関係でドイツ帝国に宣戦布告し、当時、ドイツ帝国の支配下にあった太平洋の南洋諸島のうちの赤道以北の島々「マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島」を占領しました。その後、国際連盟は、マリアナ諸島を「日本の委任統治領」と認めたわけです。太平洋諸国に今でも日本を懐かしむ人たちがいるのは「日本統治時代への恋慕」なんでしょう。

   
    

  こちらは1931年日本統治時代の台湾での実話。嘉義農林学校(KANO)は甲子園に行けたのか?  

  日本では2015年1月24日公開予定です!https://www.youtube.com/watch?v=G1AUXOlbJSA    


 歴史は「断片」で存在するものではありません。特に20世紀(1900年~2000年)は「戦争の世紀」であり「植民地解放の世紀」でもありました。日本の戦後教育における日教組と日本共産党による悪影響は計り知れません。特に日本共産党はソ連共産党の日本支部でもあり、「天皇制打倒」を目的していた左翼集団ですから、当然、当時の日本政府からは危険団体の指定を受けました。日本共産党に、「天皇制憎悪、日本政府憎悪」の血が流れているのは間違いなく、戦後、日本共産党系の学者や教師が、「日本は悪い国だ」とやったのは当然のことでしょう。日本共産党が「日本は侵略国家」とやったのは、戦前の日本共産党の忌まわしい過去を隠すための当然の成り行きでした。犯罪者は過去を隠したがるものです。

     
   

     戦前の日本共産党は連合赤軍と同じ


 私も含め、戦後の学校教育を受けた多くの日本人が「日本は侵略国家」「日本は悪い国」と教え込まれたのは、実は戦後の日本共産党の復権と日教組などの教職員組合運動の影響でもあります。でも、今から考えてみると、歴史は都合のよい断片だけで判断することはもとより、都合の悪い断片のみで判断するのは間違っているのではないでしょうか? 都合のよい断片と都合の悪い断片。この両者があってこそ、より正確な「歴史のジグソーパズル」の絵が見えてくると思います。

   
    


 戦争には「功と罪」があります。私は全ての戦争が善だとも悪だとも思いません。実際、強者による一方的な暴力にさらされている弱者が反撃するのは当然の権利であり、そこに死者が発生することはやむを得ません。過激な暴力を防ぐには「お題目」では通じないことは現実の社会を見れば明らかです。また、強者に蹂躙されている弱者を助け、解放することも必要な戦争の一つでしょう。「日本は侵略国家」というのは、日本を憎悪する人たちによる「都合のよい断片」でしかありません。歴史上には「日本は解放国家」という断片も確かに存在するのですから。


 日本のマスゴミの中には「中国から見た断片」や「韓国から見た断片」しか使わない人たちがいます。でも、世界史における「日本の歴史を知る断片」は「たった2枚」のはずではありませんよね。そこには当然、「台湾から見た断片」があり「インドから見た断片」があり、その他のアジア諸国から見た断片があり、アフリカから見た断片、ヨーロッパから見た断片、南北アメリカから見た断片あり、それらも有効に使うべきでしょう。そんな「当たり前な発想」が日本のマスゴミにないのは不自然であり不思議なことですね。まあ、それだけ「日本のマスゴミ=中国韓国の代弁者」と言うことなんでしょう。


 今日は そんな反日マスゴミが多い日本の中で、「日本人視点」を忘れない産経新聞の記事のご紹介します。私はこういう「歴史の断片」も日本人にとっては大切なワンピースなんだと思います。

  
    



 ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。 平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。


 「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」


 昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。


 当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。 「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。 2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」 http://www.sankei.com/premium/news/150102/prm1501020029-n1.html

  
    


  日本とパラオ については数多くの記事があります。 もしお時間があればぜひご覧になってくださいね。 By なでしこりん


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 台風被害にあったパラオ共和国への「草の根募金」が始まる!パラオ支援募金の送り先と振込口座

 これは「いいお話」!パラオの皆様が台風30号でも一人の死者も出さなかった理由はこれ?

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 天皇陛下、皇后陛下、来春4月、パラオをご訪問の予定 パラオに見る日本軍の本当の姿 


  「日本とパラオといえばこの話」ですよね!

 太平洋戦争当時、パラオにあるペリリュー島を守備していた日本軍のうち10695名の日本兵が戦死し、202名が捕虜になりました。アメリカ側も、1794名が戦死し、8010名が負傷しました。 ところが、ペリリュー島にいたはずの「パラオ人の死亡者はゼロ」なんですね。 パラオ人たちは島の安全な場所に隠れていたのでしょうか? いいえ、その答えも間違っています。 事実は、戦後になって判明しました。 以下、船坂弘著『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』から、その時の状況を見てみましょう。 

 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」

 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。


 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。

 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。

 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


 やがて戦況は日本に不利となり、

 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。


 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に

 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
  
 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

 

 日本人は仲間だと思っていたのに・・・・・みせかけだったのか。

 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。


 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。

 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。


 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。

 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。


 その瞬間、彼らは悟ったという。

 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・・・。  

 
『サクラサクラ  ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著(1967) より





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