韓国では「朝鮮戦争の英雄」ですら親日派認定され罵声を浴びる!
日本の子どもたちまで標的にするような反日宣伝は絶対に許さない!
なでしこりんです。昨日は「台湾の人たちのすばらしい行為」について書きました。今度は「朝鮮半島の人々」についても書いておこうと思います。今回は「歴史のはかなさ」とでも言うのでしょうか、そんなお話です。 皆様はどうお感じになられるでしょうか?
1974年8月15日 日本の「政府開発援助(ODA)」で建設・開通
この写真に見覚えはあるでしょうか? これは日本の外務省が公開した映像のなかにあった「韓国ソウルの地下鉄1号線の開通式」の写真です。 日付は1974年の8月15日になっています。8月15日はわが国にとっては「終戦記念日」ですが、韓国にとっては「建国記念日」にあたります。ただし韓国が建国されたのは「1948年8月15日」ですから、韓国は1945年から1948年まではアメリカの軍政下にあったわけです。
白将軍なかりせば・・・韓国の本当の英雄は韓国では親日派として罵倒される!
実は この写真には「写っていなければならない二人」が写ってはいません。まずお一人目ですが、前のブログでもご紹介しましたように、当時の韓国の交通部長官は「白善燁(ペク・ソニョプ)」氏。このお名前は韓国ウォッチャーならご存知のはずです。朝鮮戦争で北の侵攻を食い止めた軍人として有名な「白将軍」のことですね。白善燁氏1920年生まれ。日韓併合時は、平壌師範学校から満州軍官学校に進学し、終戦時は満州国軍中尉で終戦を迎えています。満州国軍は満州国と日本の共同軍ですね。
若かりし日の朴正煕氏。父として現在の娘の行状をどう見ているのでしょうか?
本来、写真に写っていなければならないもう一人の人物は朴正煕(パク・チョンヒ)氏。朴正煕・韓国大統領(当時)です。パク・クネ韓国大統領のお父上ですね。 先ほど、「韓国ソウルの地下鉄1号線の開通式は1974年の8月15日」と書きました。朴大統領は建国記念式典の次に「韓国ソウルの地下鉄1号線の開通式」に来ることになっていました。 朴大統領が来れなかった理由の前に、朴正煕氏の日韓併合時の経歴を見ておきましょう。
朴大統領 の実父は「墓守」ですから、公にはなっていませんが「賎民階級」かもしれません。しかし1909年、朝鮮総督府の前身である統監府が朝鮮の「奴隷解放」を行ないます。朴大統領は1917年生まれですから、身分解放がおこなわれて8年過ぎており、従来ならば行けなかったはずの小学校に朴正煕少年は進学します。そこで日本人教師に勧められて大邱師範学校に進学。その後、血書を書いて満州軍官学校に進学し、更に日本の陸軍士官学校を卒業し、終戦時は満州国軍中尉で終戦を迎えます。
階級上は同じ満州国軍中尉の二人がなぜ 「韓国ソウルの地下鉄1号線の開通式」に来なかったのか? 白善燁氏にとっては、日本に援助を要請した本人ですから、そりゃ出席したかったと思います。しかし、1970年に発生した海難事故の責めを問われて辞任。
朴大統領 に至っては、その日に、朝鮮総連が放った刺客・在日韓国人・文世光による暗殺未遂事件が発生し、在日韓国人・文世光が撃った銃弾が陸英修・大統領夫人の頭部に命中し夫人は死亡しまいます。 もし海難事故がなければ・・・もし大統領暗殺未遂事件が起こらなければ・・・おそらく日本語が完璧に話せ、日本を理解している大統領と交通部長官のツーショットが「韓国ソウルの地下鉄1号線の開通式」を飾っていたでしょうね。
朴大統領 は1979年に暗殺されました。白将軍は現在もお元気ですが、伝え聞くところによると娘さんと韓国ではなくアメリカ在住とのこと。 残念なことに「朝鮮戦争の英雄」は「親日派」として罵声を浴びるのが現在の韓国なんですね。 白将軍は現在95歳。「独立軍など見たこともないのに、どうやって 討伐できるのか」と、現在のデタラメ韓国史を公然と否定する韓国人生き証人がいなくなった時こそ、「韓国のウリナラファンタジー歴史」は完成するのでしょう。 恐ろしいことですね。
もし 朴大統領が暗殺されていなかったら・・・。もし白将軍が今も大きな権力を持っていたら・・・「歴史にはもしも」はないにしても、現在のような「日本人の子どもまでを標的にするような悪質な反日攻撃はなかった」かもしれません。 最後に「朴正煕の言葉」をご紹介しておきます。 まさに大塚家具以上の「父の心、娘知らず」ですね。 By なでしこりん
<日本の朝鮮統治>
日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 朴正煕
(出典 金完燮 日韓「禁断の歴史」p.212)