第一次世界大戦以後、日本はパラオとの友好関係を常に大切にしてきた。
今回の台風30号で大きな被害を受けたのはフィリピンだけではなかった!
なでしこりんです。フェイスブックを通して交流のあるフィリピンの友人から「無事」との返事が届きました。彼女からのメールによると、今回の台風30号(ハイヤン)による被害は、フィリピン南部の被害が大きく、マニラがある北部は大丈夫だったのことです。 現在、南部に住んでいた人たちも北部に避難する為に空港に押し寄せているとか。東日本大震災時のように、東北三県の被災者の方たちが日本各地に分散避難したことと同じことが起こっているようです。ですから、今後は被災地への救助活動とともに、「別の場所に避難した人たちへの援助活動」も必要になってきます。 また、フィリピンから生情報が入りましたらお知らせしますね。
さて今日は、フィリピンより少し南部にある「パラオ共和国」の話題です。 今日は「外務省の広報」がニュースソースなのですが、「え?これですべて?」と確認したくなるようなニュースです。
パラオ政府が発行した「日本とパラオ友好の橋・10周年記念切手」
パラオにおける台風30号の被害に対する緊急援助
平成25年11月15日
1 本15日,我が国政府は,パラオ共和国における台風30号の被害に対し,同国政府からの要請を受け, 国際協力機構(JICA)を通じ,200万円相当の緊急援助物資(発電機,スリーピングパッド等)の供与を実施することを決定しました。
2 パラオ共和国では,11月7日早朝に通過した台風30号による甚大な被害が発生し,8日,レメンゲサウ大統領により国家非常事態宣言が発出されました。パラオ政府(11日現在)によれば,被害が大きかった カヤンゲル州では,ほぼすべての住居や公共施設が全壊し,電気・水道が復旧しておらず,コロールや バベルダオブ島では,がれきで道路が封鎖され,一部の地域では,医療機関等へのアクセスが困難な状況にあります。
3 我が国は,パラオ共和国政府の要請を踏まえ,我が国とパラオ共和国との友好関係にも鑑み, 被災者に対する人道的支援のため,同国に対し緊急援助を行うこととしました。
外務省広報 http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_000287.html
パラオも台風30号に直撃された
実はフィリピンへの緊急支援も、一番最初に発表された時は、「国際協力機構(JICA)を通じ、6000万円を上限にした緊急援助物資」になっていましたが、その後すぐに、「日本政府としての支援額は10億円」と追加発表されましたから、日本政府や外務省がパラオ共和国に対して、「200万円の緊急援助物資」で終わらせるような薄情な人たちだと思っていません。もちろん、200万円相当の緊急援助物資(発電機,スリーピングパッド等)の供与と「今後の援助は別物」と私は理解しています。やはりそこは、第一次世界大戦以降、日本とパラオには「友好関係」が綿々と続いているわけですから、私たち日本国民は、パラオの人たちの災難を傍観していてはいけないでしょう。
「被害が大きかった カヤンゲル州では,ほぼすべての住居や公共施設が全壊」しているわけですから、復興のお手伝いも必要でしょうし、場合によっては自衛隊の出動や民間レベルでのボランティア活動も必要でしょう。 フィリピン南部が大きな被害を受けていますが、同じような被害を受けたパラオやベトナムのことも日本の外務省はきちんと調査をして、困っている人がいたら「お助け」するのも「国際貢献」であり、日本の国際的な評価を向上させるためには重要な活動だと思います。 ですから、皆様からも、外務省の「ご意見・ご感想」のサイトに一言感想をお願いしますね。
ここから→http://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/index.html
私は外務省にこんなメールを送りました。
前略 外務省広報を拝見しました。パラオ共和国の台風被害に関して、「200万円相当の緊急援助物資を供与」とのことですが、それだけではたして十分なんでしょうか? 広報にも書いておられるように、「ほぼすべての住居や公共施設が全壊」している場所もあるとか。 古い付き合いのある親日国家であるパラオ共和国への援助には、やはりもっときめ細かな配慮があってしかるべきと考える日本人は私一人ではないでしょう。 まさか、「パラオへの援助はこれでおしまい」ではないでしょうね? 「外務省のワイン好き」は最近は話題にはのぼりませんが、外務省の皆様にはどうか、外国産高級ワインの買い付けより、「日本の国際評価向上」にまい進していただきたいものです。早々 By なでしこりん
「日本とパラオといえばこの話」ですよね!
太平洋戦争当時、パラオにあるペリリュー島を守備していた日本軍のうち10695名の日本兵が戦死し、202名が捕虜になりました。 アメリカ側も、、1794名が戦死し、8010名が負傷しました。 ところが、ペリリュー島にいたはずの「パラオ人の死亡者はゼロ」なんですね。 パラオ人たちは島の安全な場所に隠れていたのでしょうか? いいえ、その答えも間違っています。 事実は、戦後になって判明しました。 以下、船坂弘著『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』から、その時の状況を見てみましょう。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・・・みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼らは悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・・・。
『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著(1967年) より
パラオ共和国の国旗が意味するものは・・・・