なでしこりんです。駐日パラオ共和国大使館から日本の皆様への「感謝のメッセージ」が発表されました。以下、そのまま転載いたします。
感謝のメッセージ
2013年11月7日、台風30号がパラオを襲いパラオ国民に大きな損害を与えました。レメンゲサウ大統領は非常事態宣言を発令し、被災者への緊急対策と被害状況の把握のため、パラオ国家緊急委員会を設置しました。大統領はそして、長期的な復興のためのハイヤン救済基金を設立しています。
日本の皆さまは、我々の状況を聞くや支援に乗り出して下さいました。義援金を携えて大使館を訪れて下さった方々もいらっしゃいます。メッセージを添えて義援金を送金してくださった方もいらっしゃいました。あるいはまた、大使館が開設した救援基金口座に義援金を振り込んで下さった方々もいらっしゃいました。そして、これら義援金の総額は、2013年12月26日現在で3749万9081円に達しました。
パラオ国民を代表して、このたびの多大なるご支援に対し、日本のすべての皆様に深い感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。みなさまひとりひとりから寄せられたこうしたおこころざしは、日本とパラオの人々が長きにわたり佳き友人として存することを示すものです。私たちは義援金とともに寄せられたみなさまの心温まるメッセージに深く感動しています。
我々はここに、心からの感謝の気持ちを示すとともに、大使館では2014年1月31日まで引き続き義援金受付を行うことをみなさまにお伝えしようと思います。そして1月末日をもってこの心温まる人道的な活動は区切りをつけ、最終的な義援金総額をお伝え致します。
新しい年が、すべての素晴らしい日本のみなさまに、平和と喜びをはこびますように。
在東京パラオ大使館
駐日パラオ共和国特命全権大使 フランシス M マツタロウ
(原文は英語)http://blog.pic.or.jp/images/news/140106.pdf
皆様の「善意」が届いてよかったですね! 義援金を送ってくださった皆様、この情報を拡散してくださった皆様、皆様の善意が確かに結実しましたよ。ありがとうございました。またやりましょうね! By なでしこりん
これからという方はww
三菱東京UFJ銀行 四谷支店 普通 0172126
名義:パラオキヨウワコクタイシカン (パラオ共和国大使館)
日本とパラオは古い友達。これからも大切にしていきたいですね。
「日本とパラオといえばこの話」ですよね!
太平洋戦争当時、パラオにあるペリリュー島を守備していた日本軍のうち10695名の日本兵が戦死し、202名が捕虜になりました。 アメリカ側も、、1794名が戦死し、8010名が負傷しました。 ところが、ペリリュー島にいたはずの「パラオ人の死亡者はゼロ」なんですね。 パラオ人たちは島の安全な場所に隠れていたのでしょうか? いいえ、その答えも間違っています。 事実は、戦後になって判明しました。 以下、船坂弘著『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』から、その時の状況を見てみましょう。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・・・みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼らは悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・・・。
『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著(1967年) より
パラオ共和国の国旗が意味するものは・・・・